前回に引き続き、聚楽第の遺構を取り上げます。
今回は「梅雨の井」からさらに南に下がったところの松屋町通出水上る東側に
「松永稲荷」という小さな祠があります。これだけをみると別になんの変哲もないものなのですが、このお稲荷さんのすぐ近くに、「?」な御堂があるのです。

この御堂は突然、道のつきあたりに人家に交じってあるのですが、
お地蔵さんの祠にしては妙に大きいし、かといって場所を示す扁額も何もないので
なんかとても不思議です・・・・・。
一言でいうと、とても「怪しい」!・・・・まるで『どろろ』の中に存在する御堂のよう・・・・・。
いつも、通るたびに「ここ、なんなのかな?」
と思っていました。


この御堂をよく観察すると梵語で書かれた額、「南無遍照金剛」「弘法大師」といった単語で、
どうやら真言宗系の御堂であることがわかりました。仕方がないので図書館で宅地地図を
みると「大日大師堂」としか載っていません・・・・んな、適当な・・・。
この御堂の桟のすきまから中をのぞくと(失礼)「鵲弘法大師」という提灯がつり下がっています。
実は、私が大学に在籍しているときに、「地元の遺構をテーマにして調査しなさい」という
課題がでて、私がまっさきに思いついたのがこの御堂でした・・・・。
この御堂のすぐ近くの「松永稲荷」に話は戻ります。

そこには、昭和7年に建立された「聚楽城 鵲橋の旧跡」という石碑がありますので、比較的その由緒をたどるのが、簡単でした・・・・・。

しかし、ここは調べてみると、聚楽第の堀にあたっており、その堀にかかっている名前としては「鵲橋」というのは少々、典雅すぎておかしいのではないか・・・・とも考えたのです。
もともと「鵲橋」というのは、七夕伝説に起因しており、7月7日にかささぎが作った橋で
織姫と彦星が天の川を渡って出会えるという伝説があります。
また、大伴家持の「かささぎの 渡せる橋におく霜の 白きをみれば 夜ぞふけにける」
という非常に有名な歌もあります。
昔、御所のお庭にやはり、「鵲橋」とよばれる橋がかかっていたということから、
この橋な実用的なものでなく、庭園を彩るアイテムのひとつだったのか?などと思われることぐらいしかなく、結局、なぜ、この橋が「鵲橋」と呼ばれるようになったのかはわからずじまい・・・・。
ここに鵲大明神と白玉大明神とかかれた石碑があります。
この白玉というのは、この地が天然の清水がよく湧いた地であるところから
このような名前がつけられたものと一応の推測ができます。


そして、このなぞの御堂も調べていくうちに、ここに祭られている大日如来は
この近くの井戸から発見されたという言い伝えがあった、ということがわかり、
やはり「松永稲荷」とセットにした遺構だということだけはわかったけれど・・・・。
なぜ、ここが「松永」という名前なのか、なぜ密教の御堂とお稲荷さんなのか?
いつ頃たてられたものなのか?もともと一緒のものだったのか?などなど・・・・
詳しいことは、まったくといっていいほどわかりませんでした。
でも、これらの遺構については、またおいおい調べていきたいと思います。
知っている方がいれば、ぜひお知らせください・・・・。